ようこそ。ここまで来てくれたってことは、「なんかこいつのこと気になるな」と思っているのだと思う。
だったら、ぶっちゃけた話を聞いてほしい。
闇バイトに参加し、情報商材詐欺に騙され、借金まみれになって自己破産した男の逆転人生。
どん底の人生を生き抜いた経験、ここに全部ぶちまける。
普通のプロフィールみたいなキレイごとや自慢話は一切なし。
ここには、リアルな失敗、クソみたいな経験、そこから這い上がるまでのすべてが詰まってる。
今の自分の生きづらさの正体に気づくヒントを得てもらえたら何よりだ。
「三人兄弟母子家庭末っ子」というハードモードなスタート
僕は三人兄弟の末っ子として生まれた。だけど、いわゆる「甘やかされて育った末っ子」ってやつではない。ハードモードな環境だった。
2歳のときに両親が離婚。母子家庭になった。父の記憶なんて一切ない。母の話では「家に帰ってこないような人だった」らしい。
当然、母が一人で僕らを育てることになった。虐待やネグレクトがあったわけじゃない。だけど、家の中はいつも戦場みたいだった。
特に母はいつも疲れていた。朝から晩までパートで働き、3人の子どもを育てる。それだけでハードモードな人生だ。
そのせいか、母の機嫌はいつも悪かった。例えば、
✅ 支度にもたついてると「早くしなさい!!」と怒鳴られる
✅ 料理中にうまくいかないことがあると「なんなの!もう!!」とブツブツ言ってる
✅ きょうだいでふざけていると「やかましい!!静かにしなさい!!」と半ばヒステリック気味に叫ぶ
それだけじゃない。母には譲れない時間があった。
それが「火曜サスペンス劇場」。
夜9時になると、どうしてもテレビを観たい母は、僕らをさっさと寝かしつけようとする。でも、子どもだから当然、すぐには寝ない。すると、
「いいから早く寝なさい!!」
と怒鳴られる。母にとって、僕たちは「テレビを邪魔する存在」だったのかもしれない。
でも、おばあちゃんとおじいちゃんは優しかった
そんな中でも、母のおばあちゃんとおじいちゃんは、いつも優しかった。
母から褒められた記憶はあまりない。でも、おばあちゃんは違った。僕が何か頑張ったときはちゃんと褒めてくれたし、他愛のない話をしても、楽しそうに聞いてくれた。
「へぇ、すごいねぇ!」「そんなことがあったんだ!おもしろいねぇ!」
おばあちゃんの家に行くと、なんだかホッとした。
おばあちゃんちの冷蔵庫には、いつも小さいサイズのヤクルトが入ってた。僕やきょうだいが飲んじゃうから、すぐになくなった。でも、おばあちゃんは一度も怒らなかった。
むしろ、僕らがぐびぐび飲んでるのを見て、「いい飲みっぷりだねぇ」と微笑んでくれた。
お菓子も、好きなものを何でも買ってくれた。帰り際にはいつもおこづかいをくれた。普段はおこづかいがなくて、公園の水道で喉を潤してた僕にとって、おばあちゃんちに行くことはちょっとしたご褒美みたいなものだった。
祖父母の家に行くのが、とにかく好きだった。
おばあちゃんは優しいし、おじいちゃんも何も言わずに僕らを見守ってくれてた。
おばあちゃんちのテレビで、僕ら三きょうだいが集まってファミコンをめっちゃやってた。本当なら、おじいちゃんは駅伝を観たかったはずだ。でも、文句ひとつ言わず、ただ静かに新聞をめくっていた。
「あの空間だけは、安心できた。」
あの家に行くと、怒鳴り声のない世界が広がっていた。僕にとって、「安心して自分を出せる場所」だった。
カブトムシ事件 〜母に見捨てられたと確信した日〜
夏休み、おばあちゃんからもらったおこづかいを貯めてカブトムシの飼育セットを買った。
親戚と山に行ったとき、運よくカブトムシを捕まえたんだ。
当時の僕にとって、カブトムシはただの昆虫じゃない。友達であり、家族のような存在だった。飼育セットのゼリーをあげて、元気に動き回る姿を見るのが嬉しかった。
そんなある日、母が家に友達を呼んでおしゃべりをしていた。僕はその横で、いつものようにカブトムシの様子を眺めていた。
すると、母の友達が「あ、カブトムシ飼ってるんだ〜見せて!」と言ってきた。僕は誇らしげにカブトムシのカゴを渡した。
しかし、その瞬間、バランスを崩した友達の手から、カゴが床に落ちた。しかも結構な高さから。
「大丈夫かな…?」と慌ててカゴの中をのぞき込む。
——カブトムシの角が、折れていた。
さっきまで元気にゼリーを吸っていたのに、明らかに動きが鈍くなっている。弱々しく足をバタつかせている。
それを見た瞬間、悲しくて涙が止まらなかった。
母の友達は、申し訳なさそうに「ごめんね、本当にごめんね…」と謝ってくれた。
でも、僕が一番覚えているのは、母の態度だった。
母は、僕を一瞥すると「そんくらいで何泣いてんの?大丈夫大丈夫、それよりさ〜…」と完全にスルーした。
「え?」
僕の大事なカブトムシが今、目の前で死にかけてるのに、なんでそんなにどうでもよさそうなの?
その瞬間、幼いながらに「ああ、この人は、俺のことなんてどうでもいいんだろうな」と心の深いところで確信してしまった。
それが、母への絶望の始まりだった。
それでも母を恨めなかった
それでも母を恨むことはできなかった。
というか、恨んだり嫌ったりする気持ちを、自分の中から消し去ろうとした。
母は女手一つで育ててくれた。感謝しなきゃいけないはずだ。
だから僕は「自分が母に迷惑をかけないようにしなきゃ」と思った。そう思い込むしかなかった。
「自分を出す」ということは、悪でしかない。迷惑しか生まない。誰も求めていない。
でも、そうやって自分を抑え込んでいった結果、僕の心の奥底には、どうしようもない閉塞感や生きづらさの闇の塊ができていった。
学校のピエロという生存戦略
母からの抑圧的な環境は、学校での僕の立ち位置まで決定づけていった。そう、「クラスのピエロ」。これは生き残るための戦略だった。
勉強ができる子も、運動神経抜群の子も、見た目がいい子も、みんな笑ってくれる。どんなグループとも、とりあえず仲良くなれる。「自分を貶めてでも笑いを取る」。それが、僕にとっての正解だった。
でも今になって気づく。これって、母への必死のメッセージだったんじゃないかって。
「ほら、こんなに面白いでしょ?こんなに周りを笑顔にできるでしょ?だから……僕のことも受け入れてよ」
クラスには典型的な勝ち組がいた。運動神経抜群、高身長、イケメン。ある日の体育の時間。そいつが得意げにやってみせる逆立しを、突然真似してみたくなったんだ。
結果は惨劇だった。
筋肉のない腕は僕の体重を支えきれず、まるでプロレスの技のように頭から床に激突。周囲からは爆笑が起こり、この「1人パイルドライバー」は僕の代名詞として、その後も長く語り継がれることになった。
彼らにとって僕は、ただの道化師。気に入らなければ、まるでゴミを見るような目で見下される。「おい、お前また面白いことやれよ」「つまんね。お前最近調子悪いな」「なんだよ、使えねぇな」
皮肉にも、この「ピエロ戦略」のおかげで、学校生活はそれなりに平和だった。上位カーストの連中以外は、僕のことを純粋に「面白くて楽しいやつ」として接してくれた。
「お前、マジ面白いよな!」「あいつと話してると、なんか元気出るわ」
家庭環境という闇が、皮肉にも僕に生きる術を教えてくれた。誰かを笑顔にする技術。時には自分を見失いそうになりながらも、この戦略は間違っていなかったのかもしれない。
工業高校での解放と「正しい選択」という呪い
中学3年の進路選択。本当は普通高校に進んで、大学にも行ってみたかった。でも、母子家庭。「大学費用を親に頼るのは無理だな」って、中学3年生にして冷静に考えていた。だから、就職率の高い工業高校を選択。
高校卒業後、僕は全国に支店がある電気工事会社に就職した。でも、今振り返ると、これは失敗だったなって思う。
実は、最初に気になっていた会社がありました。それはモノレール会社の電車整備員の仕事。でも、高校の先生から「もっと大きな会社を目指せ」と言われて、またしても「迷惑をかけず、うまく立ち回る」っていう刷り込みが発動。自分の気持ちはどこかに置いて、推薦枠のあった電気工事会社に就職した。
今思えば、本当に行きたかったのはモノレールの会社だった。直感を信じていれば、全然違う人生があったかもしれない……。この時ほど、「なんで自分の本音を無視したんだろう」って後悔したことはない。
過酷すぎる建設現場の日々 〜18歳現場監督の生存記録〜
全国に支店を持つ大手電気工事会社への入社。高校の先生からは「これで出世街道間違いなし」と太鼓判を押された。
その華々しい夢は、配属初日から木っ端微塵に粉砕された。
待っていたのは技能工ではなく、現場監督という想定外の重圧だった。高校を卒業したばかりの18歳。まだ子どもと言っていい年齢の新人が、経験豊富な職人たちを束ねる立場。
PCに向かって施工図を描く毎日。A0サイズの巨大な図面用紙に印刷して職人たちに渡す。だが、その図面の意味も、現場の流れも、何もかもが分からない。誰も教えちゃくれない。
朝は8時から。だが実際は7時には現場に入り、前日の残務処理に追われる。
「図面と現場が違う!」「材料が足りない!」「なんとかしろ!」
携帯は鳴り止まない。現場は怒号で満ちている。職人同士の喧嘩が始まる。
「てめぇの段取りが悪いから仕事になんねぇんだよ!」
収めるために飛んでいって、盛っている職人たちの間に割って入る。なだめすかして、平謝り。悪くもないのに頭を下げる。別の日は、段取りの悪さを咎められ、ヘルメット越しにハンマーでゴンと頭を叩かれた。
ある日、現場での対応が終わって事務所に戻るため早足で歩いていたとき、ある職人が僕を見てこう言った。
「〇〇くん、首曲がってるよ首!」
無意識だった。言われて初めて気づいた。首が右に倒れたままで早足で歩いていたらしい。
「かわいそうに。忙しすぎてストレスで首が戻らなくなっちまったんだ」
職人たちからすら、あいつ大丈夫なのかと心配されるほどの多忙ぶり。
プレハブ小屋は第二の住処と化していた。繁忙期の残業時間は200時間を余裕で超える。日中の現場は工事が間に合わない。
「このままじゃ工期に間に合わねぇ」
職人たちの残業が始まり、現場は20時まで動き続ける。その間もずっと携帯が鳴り響く。夜の現場を駆け回る毎日。
さらに17時を過ぎると、プレハブ事務所にケース単位でビールやチューハイが届き始める。建築会社の連中が主導する、否応なしの宴会の始まりだ。その「リフレッシュ」とやらの準備はすべて俺ら設備会社に任される。
「つまみがないから買ってこい」
言われるままコンビニまでダッシュ。くだらない昔話に、退屈な自慢話。聞いているだけで精神が摩耗していく。
当時の僕は、「石の上にも三年」という言葉を信じていた。中学の頃から親に言われ続けてきた「まずは3年は続けなさい」その言葉を信じ、ただひたすらに耐えていた。
入社から2年以上が経っていた。時間外労働は300時間を超え、心も体も悲鳴を上げている。それでも必死に食らいついた。
でも、ある夜のプレハブで、図面を前に独り考えていた。
「なんのために生きているんだろう」
その問いが、疲れ切った心に突き刺さった。
酒とガールズバーに溺れた日々
仕事のストレスから、気づけば酒に入り浸るようになっていた。仕事が終わったら飲み屋へ直行。まだ20歳、高校は男子ばかりで、恋愛経験は皆無。そんな僕が、ずっと気になっていた「ガールズバー」という未知の世界に足を踏み入れてみたら……そこには可愛い子がたくさんいるじゃないですか。
もうね、まんまとハマった。
仕事終わり → ガールズバー → 朝5時まで飲む → 仕事場の事務所で仮眠(2時間) → 7時起床 → 仕事、みたいな生活を繰り返してた。今考えると、よく生きてたなって思う。
初めての”恋愛”(のつもり)と大失恋
そんな生活の中で、目当ての子もできた。恋愛経験ゼロの僕は、とにかく必死。どうにか振り向いてもらおうとアプローチし、意を決して2回、3回と告白した。でも、返事はすべて撃沈。
そしてある日、あとから聞いた。
「その子、仲良くなった常連と付き合ってるよ」
さらに追い打ちをかけるように、僕と一緒にそのガールズバーに行った男友達がその子に手を出してたことも判明。しかも、僕が告白したことを知った上で、その子とワンナイトしてたっていう……。
明らかに自分の魅力不足だっただけなのに、この一件で女性不信になりました。
劣悪な労働環境からの脱出計画
振られ続けてても酒がガールズバー通いがやめられなかった。
それだけが唯一のストレス解消だったから。
こんな生活を続けていたら、さすがに心も体も限界に。 「この劣悪な労働環境、どうにかしないとヤバい」 と思い始めました。
僕は高校時代からパソコンを触ってネットサーフィンをしていたので、ネットで色々と情報を漁りました。そこで見つけたのが 「会社を辞めて失業保険をすぐにもらう方法」 みたいな情報商材。
当時、情報商材なんて 「怪しい詐欺みたいなもの」 というイメージしかなかったんですが、背に腹は代えられない。数万円を払って購入し、書かれている通りに動いたら…… 本当にすぐ失業保険をもらうことができた。
このとき初めて 「ネットの情報で人生が変わるかもしれない」 という感覚を持ちました。
そして、この出来事が、僕が 情報商材という世界に足を踏み入れるきっかけ になったんです。
無職、失業保険、そして再び酒浸りの日々
無事に失業保険をすぐにもらうことに成功し、晴れて(?)会社を辞めることができました。
でも、辞めたはいいけど……やることがない。
ハローワークに数週間に一回通えば、「就職活動してます」ってことになるから、翌月も失業保険は入ってくる。時間はある。でも、やりたい仕事は特にない。
そうなると、やっぱり飲みに行くしかない。
またしても、夜な夜な酒を飲む日々。昼夜逆転、飲み歩く生活が続きました。何も変わらないまま、ただ時間だけが過ぎていきました。
飲みに行く先で恋愛ノウハウを実践する
ガールズバーでの大失恋を経験してからというもの、「もう二度と同じ思いはしたくない」という執念が生まれた。その思いから恋愛系の情報商材に次々と手を出すようになる。
最初は「こんなの効くわけない」と半信半疑だった。でも、ガールズバーの目当ての子を落としたい一心で、夜な夜な教材を読み込んだ。実践する勇気はなく、ただ読むだけの日々が続いたが、女性の心理や恋愛の本質についての考え方だけは変わっていった。
「女性は感情で判断し、男は理屈で判断する」 「女性は『男の価値』を3秒で見抜いている」 「モテる男は『提供する』のではなく『引き出す』」
これらの概念が、自分がいかに「いい人」ぶって損をしてきたかを教えてくれた。
無職で時間だけはある。失業保険と退職金があるから、金も十分とは言わないまでも使える。ひとまず理屈は理解したから、いよいよ実践あるのみ。
最初は単純なことから。バーの女性店員と話すとき、媚びるのではなく堂々と意見を言う。すると不思議なことに、前よりも話が広がるようになった。
やがて小さな成功体験が増えていく。朝まで一緒に飲んだ女性を「このまま帰るのもったいなくない?」とホテルに誘ってみたら、まんまと成功。教材通りに大胆になってみると、意外なほどすんなりとことが運ぶこともあった。
通いのバーでは、他の男常連からも人気の女の子に敢えて冷たく接してみると、逆に「あれ?」という顔をされ、次第に距離が縮まっていった。ある夜、二人で帰る途中、流れで自然にキスしたときは、自分でも驚いた。
知見が増えるにつれ、行く先々での出会いも変わっていった。「女性は男を選ぶからこそ、女性に選ばれる男になれ」という教えを実践するようになると、友達の紹介や合コンなどでも、いつの間にか仲良くなる女の子が増えていった。
この経験が、今の彼女との出会いにも活きている。彼女との関係も、昔の自分ならすぐに壊していたかもしれない。でも、恋愛を通じて学んだのは「女性心理」だけじゃない。「自分の価値」と「人間関係の作り方」という、もっと本質的なものだった。
「楽して稼ぐ」幻想と現実 — 情報商材依存症の正体
そんな生活を過ごしていけば自然とお金も減ってくるのでさすがに焦る。
就職は嫌。でも稼ぎたい。ネットを漁り始めた僕の前に現れたのは、輝かしい「楽して稼ぐ」の世界だった。
最初はYouTube攻略法。当時のYouTubeは規制が緩く、アルゴリズムの穴を突く方法で稼げると信じた。値段は数十万円。クレジットカードを切って購入。結果、6万円ほど稼げたが、単調な作業にすぐ飽き、規約変更で稼げなくなった。
そこから依存症のように次々と手を出していった。
・「月収100万円稼げる」ブログアフィリエイト教材を何本も購入
・「稼ぐ人の思考法」と銘打ったコンサルサービスの作り方
・「10倍売れる文章術」というコピーライティング教材
・「フォロワー0から月収50万円」というTwitterアフィリエイト教材
・「利益率300%」という転売ノウハウ
・「あなたが何もしなくても稼げる」仕組み化・外注化教材
数万円のものから20万円以上する高額なものまで、次々と買い漁った。どれも「楽して」「簡単に」「初心者でも」という言葉に釣られて。
残酷な現実は、どの教材でも「成功している人」は確かにいるということ。でも、それは「生活を捧げるくらい本気で作業時間を費やしたガチ勢」だけだった。
僕みたいに「楽して稼ぎたい」と思っていた人間がどうなったかというと……
✅ 1万円くらいは稼げる
✅ でも、そこから努力を続けられない
✅ 残るのは、情報商材の支払いだけ
という、完全に情報商材のカモになっていた。
一番辛かったのは、クレジットカードの支払いだけじゃなかった。
心の奥底には常に「自分はダメな人間だ」という思いが生まれていた。
他の人は稼げているのに、なぜ自分だけがダメなのか。
努力が足りないのか、センスがないのか、運がないのか。
成功者の声を聞くたびに、自己嫌悪が深まる。でも、次こそはと思って、また別の教材に手を出す。この悪循環から抜け出せなくなっていた。
そして最も皮肉なことに、「楽して稼ぎたい」という思いが強いほど、「楽して稼げる方法」などないことに気づけなかった。
苦労して得た教訓は一つ。
「楽して稼ぐ」という言葉に踊らされたとき、唯一確実に稼いでいるのは、その言葉を売る人だけということ。
派遣での仕事、そしてまた逃げる
情報商材の支払いに追われながらも、とりあえずハローワーク経由で派遣として就職。
仕事は都内のオフィスでのパソコンを使った業務だった。これまでの肉体労働とは違い、クーラーの効いたオフィスで仕事ができるのは快適……かと思いきや、片道1時間45分以上の満員電車という地獄。
通勤のストレスからか、胃腸炎になってしまった。朝の満員電車で吐き気を催したことは一度や二度ではない。
それに加えて残業も多く、毎日20時、21時までオフィスに居ることも珍しくなかった。家に帰ってもただ寝るだけ。気がつけば朝。また満員電車に飛び乗る。この繰り返し。
朝のぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られるたびに「こんな生活無理だ」と思い、結局また逃げるように辞めた。
タクシー運転手という戦場へ
次に選んだのは、都内のタクシー運転手(正社員)。週3勤務というのが魅力で、「時間ができるから今度こそ情報商材も実践できるかも」と淡い期待を抱いていた。
しかし、蓋を開けてみると1勤務20時間という過酷な勤務体系。体内時計はぐちゃぐちゃになり、帰って寝るだけの生活に。結局、情報商材に取り組むどころか、またしても支払いだけが残った。
タクシー運転手は地獄だった。
ある日、道を少し間違えただけで、乗客に「違法行為だから警察署まで行け」と半ば脅される。若かった僕は従うしかなく、警察署まで行くことに。
ところが、警察署に到着するとその客は「じゃあ自分で話をつけてこい」と丸投げされる。仕方なく乗客を車に残し、警察の受付で意味不明な事情を話す。
警察もなんだかわけのわからないことを言うやつだと言わんばかりの顔で困っている。
乗客もここにつれてきて話をしようと警察に促されたので客を呼ぶために車に戻ると……客がいない。完全に乗り逃げされた。
この時点で、精神的にもうボロボロ。極めつけは、長時間運転の疲労で新宿の大通りを走りながら数秒眠ったこと。
「いつか事故を起こす」
そう確信した僕は3ヶ月でタクシー運転手を辞めた。
「情報商材で食ってやる」という謎の執念 — 希望という名の自己欺瞞
ここまで散々な目に遭いながらも、「情報商材で稼ぐんだ」という謎の執念だけは消えなかった。
不思議なことに、現実を直視する冷静な目と、「次こそは上手くいく」という根拠のない希望が、僕の中で常に共存していた。
・何十万円も無駄にしたことへの自己嫌悪
・そもそも才能がないんじゃないかという不安
・それでも「次の教材こそ本物だ」と信じたい気持ち
頭では「もうやめるべきだ」と分かっていた。数々の失敗が、その証拠だった。
でも、心の奥底では「まだ諦めたくない」という感情が渦巻いていた。なぜだろう?
もしかしたら、「情報商材で食う」という執念は、ただの現実逃避だったのかもしれない。就職して社会の歯車になりたくない。でも自分の力だけで生きていく自信もない。
そんな矛盾した自分を救ってくれる「魔法の杖」が欲しかっただけなのかもしれない。
結局のところ、「努力できなかっただけ」という現実から目を背け続けていた。
楽して稼ぎたかっただけの僕にとって、情報商材は幻想だった。それでも、その幻想にすがりつかずにはいられなかった。なぜなら、その幻想こそが、不安定な僕の人生における唯一の「希望」だったから。
闇バイトとの出会い — グレーゾーンという甘い誘惑
そんな中、今で言う「闇バイト」みたいなものに出会ってしまう。当時、ちょっと怪しめな求人情報誌に普通に載っていた。
面接は普通のカフェで行われた。相手は、スーツを着た、どこにでもいるようなサラリーマン風の男性だった。話し方も穏やかで、「怪しい」という印象は全くなかった。
だが、説明された仕事の内容は、確かに人には言えないようなものだった。
思わず聞いてみた。「これって、大丈夫なんですか?」
面接官は、不思議と正直に答えてくれた。
「本当に正直な話をすると、グレーです。でもあなたが罪に問われることはないでしょう。」
今思えばここでやめればよかった。普通なら「すみません、やめておきます」と言って席を立つべきだった。
だが、そのとき僕はなぜか「やります」と答えていた。
もしかしたら、情報商材と似通った何かを感じたからなのかもしれない。当時の情報商材の手法も、「規制が厳しくないから稼ぎやすい=グレー」みたいな感じだったから。
それに、このバイトは完全歩合制。「頑張り次第で稼ぎは青天井」という言葉に、またしても心が揺れた。目の前にあった「楽して稼げる」という甘い誘惑に、また負けてしまったのだ。
結果、まったくセンスがなく、たいして稼げなかった。それでも、普通の仕事よりは楽だったので、ダラダラ続けていた。
借金まみれ、そして自己破産へ
情報商材と酒に散財した結果、借金とクレジットカードの支払いが膨れ上がる。
「闇バイトなら稼げるし、一気に支払いを終わらせられる」と思ったが、センスがない僕は大きくは稼げず、支払いはどんどん滞る。
さすがにヤバいと思い、債務整理(個人再生)を裁判所で行い、支払いを大幅に減額。しかし、それでも金銭感覚は変わらず、稼ぎは悪いのに酒にはしっかり金を使い続ける。結果、またしても支払いが回らなくなる。
もう自己破産するしかないと思い、ネットで方法を調べた。「法テラス」という法律相談サービスを利用し、弁護士を紹介してもらう。今の事情、闇バイトやってることもすべて説明せざるを得なかった。弁護士にはゴミを見るような目で見下されるという屈辱を味わいながらも、無事、自己破産が決定。借金はチャラになった。
暴力沙汰に巻き込まれ、人生最大の危機
闇バイトを続けていたある日、突然の出来事が起きた。敵対組織のチンピラ共が事務所に殴り込みに来たのだ。
バットで肩と顔を殴打され、挙句の果てには顔面を蹴り上げられる。鼻の骨が折れ、出血もひどく、そのまま病院送りに。
警察が事情を聞きに来たが、話が進むうちに「お前もいかがわしいことをしていたのでは?」という尋問に変わる。最初は抵抗していたが、観念し始め、自分のやっていたことや組織のことまですべて話してしまった。
「これはもうブタ箱行きだな……」と覚悟したが、立件できる証拠がなかったため、犯罪者としては扱われなかった。
しかし、自分の組織のことを話してしまったせいで、「報復されるのでは?」という疑心暗鬼に陥る。
実家に逃げる、そして人生初の同棲
散々な目に遭った後、逃げるように実家へ帰還。近くの大手工場で働くことになった。
そこで今の彼女と出会い、同棲開始。現在同棲6年目。初めての同棲生活はストレスを感じることもあったが、なんだかんだ関係を維持しながらやっている。
幻覚剤との出会い、精神世界への扉
彼女の紹介で「幻覚剤(合法)」の存在を知る。興味本位で3種類ほど試してみた。
その結果、言葉では形容しがたいスピリチュアルな世界を体験。目に見えないエネルギーや「引き寄せ」「量子力学」「波動」などの概念をより許容できるようになった。
とはいえ、「現実と精神世界のバランスは重要」だと思っている。スピリチュアルにどっぷりハマるのではなく、むしろ冷静に客観視しているつもり。
あとで調べてみると、幻覚剤は欧米諸国ではPTSDや心の病の治療手段として研究が進んでいるらしく、実際に臨床試験も行われているらしい。
思い返せば、20代の頃は疑心暗鬼で、常に荒れていた。でも、幻覚剤を経験してから、何かが変わった気がする。以前より精神的に落ち着いたのは確か。
「自分が望んでいること」がわからない人生
そもそも幼少期の影響で、他人の動向を観察したり、相手が何を求めているかを察する能力は皮肉にも身についてしまった。
その代償として、「自分が本当に望んでいること」がまったくわからなかった。特に20代はひどく、「なんのために生きてるんだろう」と思うことが多かった。
その悩みを抱えながら、カウンセリングを受けたり、セラピストの書籍やブログを読み漁って、独学で心理学を学ぶようになった。実際、今でも心理学には強い興味がある。
レイキヒーリングへの興味、そして実験
幻覚剤を通じて精神世界や「見えない世界」への興味が深まった頃、彼女の影響で「レイキ」というヒーリングに関心を持つようになった。
レイキは欧米では民間ヒーリング療法として広く知られているが、実は発祥は日本。特に明治〜大正時代には一般的だったらしい。
当時の教えによると、レイキは単なるヒーリングではなく、人生や精神に影響を与える教えのようなものらしい。
「本当にそんな効果があるのか?」そう思った僕は、自分自身で試してみることにした。人生や精神にどれほど影響を与えるのかを実験していきたいと思っている。
年内にはレイキの受講を予定している。スピリチュアル寄りに見えるかもしれないが、実際には盲信しているわけではなく、あくまで客観的な視点を持ちつつ、世の中にはスピ的な要素が多く存在しているのではないかと考えている。
生きづらさMAXの20代からの脱却
20代は生きづらさMAXだった。希望もなく、ただ惰性で生きていた。
しかし、
✅ 心理学
✅ マインドフルネス
✅ 幻覚剤
✅ レイキ
などを複合的に学んでいくことで、少しずつ生きづらさを解消しつつある。
ネットで稼ぐ夢は捨てきれず
今でもネットで稼いで食べていく夢は捨てきれない。無数の挫折を繰り返した挙句、自己破産にまで至った僕が、なぜまだこの夢にしがみついているのか。自分でも不思議だ。
でも今回は違う。以前のような「楽して一獲千金」を狙うのではなく、地道な積み重ねを選んだ。小さな一歩を確実に踏み出す戦略だ。
最初の目標はGoogleアドセンスの審査通過。今ではアドセンスの審査自体が異常に厳しくなっているが、まずはサイトを2つ構築して無事に通過させた。これだけでも情報商材で散々失敗してきた僕にとっては、大きな自信になった。
収入はまだ月1万円程度。大したことない金額かもしれないが、「自分でも稼げる」という証明になった。その1万円がどれほど価値のある1万円か、失敗を繰り返してきた人間にしか分からない。
技術面でも成長を感じる。キーワード選定の技術、トレンドの見極め方、徹底的なリサーチ手法。以前の僕ならめんどくさがって省略していたこれらのプロセスを、今は当たり前のように実践している。
AIの活用も始めた。記事構成からリライトまで、AIを上手く使いこなすことで作業効率が格段に上がった。さらに記事の自動生成、自動投稿のプログラムも組めるようになり、ほぼ仕組み化させることができた。
「稼ぐために何かしなくては……」という焦りはまだある。でも、以前とは質が違う。闇雲に焦るのではなく、明確な方向性を持った焦り。少しずつでも前に進んでいる感覚が、日々の活力になっている。
かつて情報商材に踊らされ続けた経験が、逆に「本物」と「偽物」を見極める目を養ってくれた。今では自分なりの基準で情報を取捨選択できるようになった。これも失敗から得た財産だ。
地道な作業の繰り返しは時に退屈だが、小さな成果が積み重なる喜びは格別だ。今の僕は「結果を出すまでやり続ける」覚悟を持てるようになった。それこそが、これまでの情報商材依存症を経て得た最大の学びかもしれない。
これからの挑戦
僕の人生は、「三人兄弟母子家庭末っ子」というハードモードからスタートし、闇バイト、情報商材詐欺、借金地獄という底辺を這いずり回ってきた。
それでも、どんなにコンプレックスにまみれていようが、どんなに失敗していようが、どんなにダサい自分であろうと、人生を変えることはできる。
一歩踏み出すことで、確実に世界は変えることができる。これは間違いない。
決意をするだけなんだ。
ここまで読んでくれて、ありがとう。僕の経験や知識があなたの人生に役立てば嬉しい。
地獄から天国への這い上がり方、これからも発信していくつもりだ。